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歴史と政治思想が指し示す「分散自律」の系譜
古代アテネや中世自治都市に見る「中央なき自治」の伝統
DAOという発想の根底にある「中央のリーダーを置かない」「全員が意思決定に参加する」という特徴は、必ずしも現代のIT技術でしか実現できないわけではありません。
たとえば古代アテネの直接民主制では、エクレシア(市民集会)を通じて(当時の男性自由民のみが参加したという限定はあったものの)市民が法案や政策を投票で決定していました。カリスマ的な独裁者や絶対王を戴かずに、ある種の回転制で官職を回す仕組みも存在していたのです。
また中世ヨーロッパでは、商業都市などがギルドや地域の協定に基づき、封建領主の直接的な支配から一定の自治を勝ち取ったケースも多く見られました。これらも大規模ではないにしろ、参加者が自律的にルールを整備し、力を分散させるという観点から、DAO的な萌芽といえます。
近代社会契約論・協同組合運動との共通点
続く近代では、ロックやルソーが唱えた社会契約論が「個人の自由意志にもとづく共同体形成」を強く意識しました。ルソーは『社会契約論』で「一般意志」の概念を提示し、すべての人が政治参加を通じて共同の意思をつくり上げる理想を描きます。これも中央集権を薄め、多様な意見を集めて公共善を図るというDAO的精神を先駆的に示唆しているとも言えます。
さらに産業革命期以降、資本家の支配に対抗する労働者たちは協同組合を立ち上げ、構成員が出資・経営・配分を民主的に決める形を確立しました。この運動はブロックチェーンなど存在しない時代ながら、投票や話し合いによって組合を自律的に運営する―つまり技術よりも前に、「分散ガバナンス」を理念化した実例と見ることができます。
DAOが「技術抜きの理念」として残るシナリオ
バズワードの陰にある「中央依存への不満」
近年、DAOという言葉が広がる一方、実態を伴わない「なんちゃってDAO」が増える懸念が指摘されています。しかし、こうしたバズワード化の現象は、中央集権に依存しない意思決定に対する潜在的なニーズが非常に大きいことの裏返しとも言えます。
民主政治への不信や権威主義の伸長が世界各地で見られる今だからこそ、人々が自分たちで合意を作りたい、権力者に委ねるのでなく参加したいという思いが再燃しているのではないでしょうか。DAOはそれを実装する新しい技術の顔を持っていますが、たとえ技術が形骸化しても「民主的に、自律的に意思決定を行うフレームワーク」としてのDAO的思考だけは継承される可能性が高いのです。
社会哲学に見る分散ガバナンスの底力
政治学や社会哲学の文脈では、「共通善をどう形成するか」「公共圏をどう維持するか」というテーマが繰り返し論じられてきました。オストロム(Elinor Ostrom)の『公共財の管理』やトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』などでも、地域住民が自律的に公共財を管理する、あるいは市民が対話を通じて民主政治を発展させる例が報告されています。
こうした研究は、DAOが後に提示する「分散・自律のガバナンス」と親和性が高いものです。ブロックチェーンなしでも、地域コミュニティや市民団体が自分たちで合意をつくり、責任を共有するメカニズムは歴史的に確立されてきました。ゆえに、DAOがバズワードとして一時的に流行り廃れても、分散による自治という思想自体が根強く残ると思われるのです。
理念としてのDAOが訴えかけるもの
「分散と自律」は民主主義への再提案
DAOという言葉に惹かれる人の多くは、既存の民主主義が必ずしも理想的に機能していないことを肌で感じているのではないでしょうか。投票率の低下や政党の硬直化など、様々な問題が表出している中で、DAO的思考は「全員参加」や「コミュニティ主体」を強調することで、民主主義の在り方を再提示していると考えられます。
現行の制度がそのまま存続しても、テクノロジーの進歩や価値観の変化に合わせて意思決定プロセスが柔軟に更新されることは大いにあり得るでしょう。その際、ブロックチェーンなどが使われなくても、「合意形成をみんなでする」という心構えだけはDAO的に取り入れられるわけです。
歴史が証明する「中央なきガバナンス」の可能性
最後に振り返れば、DAOに近い概念は歴史を通じて繰り返し姿を見せ、また姿を消してきました。古代都市国家、中世のギルド、近代の協同組合――どれも何らかの理由で衰退したり、別の体制に吸収されたりしてはいます。しかし、その都度、中央集権に抵抗する自治のエネルギーは消え去ることなく、新たな技術や状況に合わせて形を変えてきました。
まさに、DAOというバズワードがいずれ勢いを失おうとも、そこに宿る「分散と自律」の理念は、政治・社会思想が必要とするテーマであり続けるでしょう。技術が消えても、互いに合意を積み重ねる民主的な社会を志向する限り、DAO的マインドは残り続ける可能性が高いのです。
技術が消えても“DAO的”なマインドは歴史の地層に根づく
こうして見ると、DAOは単なる技術革新の産物ではなく、歴史的に繰り返されてきた「中央依存からの脱却」という大きな潮流の一部だといえます。たとえブロックチェーンが使われなくなる未来を想定しても、中央集権に頼らず合意形成をするという発想自体は、人類の政治体制論における普遍的なテーマとして繰り返し浮上してきたのです。
だからこそ、バズワードとしてのDAOがいつか廃れても、「分散と自律」のフレームワーク――すなわち「思想としてのDAO」――は、政治や社会のさまざまな場面で再発現し続ける可能性があるでしょう。歴史と政治思想を踏まえれば、DAOはブームでは終わらない。未来の私たちが再び「中央のない自治」を必要としたとき、その理念は必ず姿を変えて蘇るのではないでしょうか。